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2016-02-21

拝啓 吉田松陰先生と萩商工会議所青年部の中の人

拝啓 吉田松陰先生と萩商工会議所青年部の中の人

先日、ブログに書きました。萩商工会議所青年部主催「第二回福よこいこい 地域還元宝くじ」に当選して10,000円いただきました、と。記事はこちら。

同封されていたお手紙に「今後とも今回ご利用いただきました店舗並びに地域店舗の積極的なご利用をお願い申し上げます」とありましたが、今東京に住んでいてすぐには萩に行けないので、ブログを使ってお礼でも。で、「はい、じゃあ今から萩の宣伝しまーす」と普通に紹介するのもあれなので、今日は萩が生んだ偉大なる幕末の志士「吉田松陰」先生に手紙をしたためました。


拝啓

吉田松陰先生

先生が29歳という若さでお亡くなりになって157年が経ちました。2016年に生きる今の私より年下ですが、尊敬の意味を込めて“先生”と呼ばせていただきます。私は先生と同じ山口県出身で、先日、後厄の厄払いをしていただくために松陰神社に参拝してまいりました

壊滅的な記憶力しか持ち合わせていないため、日本史の授業なんて大嫌いで、何一つ興味が持てなかったため、ちょっと前まで、先生のことも名前と顔くらいしか存じ上げませんでした。鼻くそほじりながら「あーあったね、尊王攘夷的な? なんとか塾みたいなやつ立ち上げた人でしょ。そうかしょ、しょうかそ、あれ? なんだっけ? まぁいいや」とか言っちゃうくらいのテンションでした。

しかし、ある日興味本位で、私が松陰先生と同じくらい尊敬してやまない「Google先生」に尋ねてみたところ、出るわ出るわ、先生のクレイジー(いい意味で)なエピソードの数々。

どうやら私は大きな思い違いをしていたようです。まず、残されている先生の絵がどう見てもおっさんじゃないですかー

てっきり私より年上だと思ってました。それから、松下村塾を立ち上げた功績や、明治維新の精神的指導者・理論者・教育者なんていう肩書のイメージが先行しすぎて、堅物で融通の利かない、面白みに欠ける人間だと思い込んでいましたよ

そんな先生のイメージが木っ端みじんに吹き飛んでしまった今、私は以前にも増して先生のことが大好きになりました


最初に私の度肝を抜いたのは、先生のこんなエピソード。

21歳の時、松陰は親友と東北旅行を計画します。 しかし、自藩の長州藩に申請した通行手形がなかなかもらえず、 友と約束していた旅行日に間に合いそうにありません。 そこで彼はどうしたか? しょうがないので、松陰は死罪覚悟で脱藩します。

幕末ガイド』より引用

武家社会組織において、最も罪の重い違反行為。それが脱藩。

脱藩とは、主君の許しを得ず、無断で藩領を出て、浪人となることを指しており、藩との雇用関係を一方的に破棄してしまうという、決して許されない大罪でした。通常脱藩行為が発覚した場合、藩庁からは追手が差し向けられることが多く、帰藩命令に従わなかった時には『上意』の名の許で、成敗されることも少なからずあったのです。

タケ海舟の歴史事件帳』より引用

親友との約束を守るため。ただそのためだけにこんな無茶な行動に出た松陰先生。脱藩も相当ヘビーですが、「手形なしで東北へ」もけっこうパンチ効いてます。これ今で言うと「パスポートなしで外国へ」に等しい。

『走れメロス』どころの騒ぎじゃないですよ。メロスは自分が間に合わなかったら親友が処刑されちゃうからがんばって走った。これは分かります。でも松陰先生の場合、親友を処刑するとか誰も言ってない。なのに、死罪覚悟で脱藩。一緒に行く約束をしていた親友も相当びびったでしょう。

でも、実はその親友のひとり、江幡五郎の目的が「お兄さんの仇討ち」だったからそんなに必死になったんですよね。約束の日にちだって12月15日。『忠臣蔵』で有名な赤穂浪士討ち入りの日です。「やっぱ、仇討ちと言えば12月15日じゃね? 」と意気込んだ松陰先生の様子が目に浮かびます。未開の東北地方、極寒の12月、危険極まりない不法滞在の逃避行。今で言う「度を超えた悪ノリ」で、死罪にはならなかったものの、江戸に帰ってから士籍剥奪(侍の身分の剥奪)と世禄没収(給料没収)をくらってしまったことはここだけの話にしておきましょう。


それから、黒船が来襲してきたときの話。

鎖国中の日本に突然やってきて開国せよと迫るアメリカ。ペリー提督は威圧感たっぷりの黒船艦隊4隻を江戸湾深くまで侵入させ、空砲3発を威嚇射撃します。圧倒的な技術力・軍事力の違いを見せつけ「俺TUEEE」状態のペリー提督。これが噂の砲艦外交

これらの船は、艦隊のごく一部にすぎない!! 今度は、全艦連れて帰ってくる!!

日々徒然~歴史とニュース? 社会科な時間~』より引用

「ちょっと何言ってるかわかんないです」と言いながら内心(欧米ヤバイ)と涙目の江戸幕府を尻目に松陰先生が放った(正確には手紙に書いた)言葉は再び私の度肝を抜きました。

「聞くところによれば、彼らは、来年、国書の回答を受け取りにくるということです。その時にこそ、我が日本刀の切れ味をみせたいものであります。」

ウィキペディア/吉田松陰』より引用

なんて好戦的な態度! 大砲相手に刀でガチンコ勝負仕掛ける気満々です。黒船を目の当たりにし、江戸幕府の偉い人含め、ほとんどの日本人がその脅威におびえ右往左往しているというのに、松陰先生だけはメラメラと闘志を燃やしていらっしゃったんですね

さらに松陰先生のすごいところは、「あれに乗って密航すれば、外国留学できるんじゃね? 」という発想を持たれたこと。“ピンチをチャンスに! ” まさにこれですね。かねてから海外留学を切望していらっしゃった先生ですもの。自分の目で外国を見てみたいという衝動、すごくよく分かります。

それから一か月後、長崎にロシアのプチャーチン艦隊が来航しているという噂が。師である佐久間象山からも、「外国の艦隊に乗って留学しちゃいなよ」と背中を押され、意気揚々と長崎に乗り込みましたよね。

ところが! プチャーチン艦隊の出航が予定より早まってしまったためあえなく失敗。船が出たの3日前。痛恨のニアミス。でも、まだあわてる時間じゃない。

こんなことであきらめるような松陰先生ではありません

翌年、日米和親条約締結のために、再び日本にやってきたペリー艦隊への乗船(密航)を決意しまします。決行当日、散歩中のペリー艦隊の書記官にこっそり手紙を渡します。内容はこんな感じ。(原文ママではないです)

「艦隊が出航するときは乗船させて欲しい。そして世界中を見たい。日本人の海外渡航は禁令で、露見すれば首をはねられ、アメリカにも迷惑をかけると承知している。しかし我々の誠意を疑わず拒絶しないで欲しい」

ゆーくんはどこ? 』より引用

そして夜中2時、先生は弟子の金子重輔といっしょに、盗んだ小舟でペリー旗艦ポーハタン号に横付け。そのまま甲板に乗り込んで、直談判。「“世界”を見たいんだ! いっしょに連れてってくれ! 」。こちらがポーハタン号の絵です。

出国許可がないのに、勝手に外国籍の船に乗って密航。これは今でいうと、立派な出入国管理法違反です。でも、自分が触れたことのない文化を知りたい! 自分のまだ知らない“世界”が見たい! その一心で命を懸けて密航をするという松陰先生の行動力。さすがっす。

さらに言うと、実は盗んだ小舟が壊れていて、補強のために着物の帯もふんどしも使ってしまったため、この時の先生はどっからどうみても立派な不審者。具体的にどういう状態だったか定かではありませんが、きっとあられもない姿一歩間違えば公然わいせつ罪でブタ箱行きです

身分が高く教養もある大の大人がこんなにも必死になっていっしょに連れてってくれと訴えている。そんな先生の姿に心打たれるペリー。個人的には連れてってあげたい。でもペリー、いま大事な時期。日米和親条約を結んだ直後のこのタイミングで、あまり日本と揉めたくありません。ということで、松陰先生の切実な願いは聞き入れられませんでした。

でも、松陰先生の行動力と情熱にびっくりし、その命がけの覚悟に非常に感銘を受けたペリーは、自身の旅行記に以下のように書き記しています。

「この事件は、厳しい国法を犯し、知識をふやすために生命まで賭そうとした 二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示している。 日本人は疑いもなく研究好きの人民で,彼らの道徳的、知識的能力を増大する機会を常に喜ぶ。 この不幸な二人の行動は、同国人の特質より出たものであったと信じるし、また人民の抱いている激しい好奇心をこれ以上によく示すものはない。日本人のこの気質を考えると、この興味ある国の将来は、何と夢にあふれていることか! 何と希望に満ちた未来が開けていることか…! 」

ゆーくんはどこ? 』より引用

あのペリーにここまで言わしめた松陰先生。ペリーの旅行記には上の文章に続いて延々8ページもの先生についての記述があったそうです。ちなみにペリー、松陰先生のこと好きすぎて、幕府に罪を軽くするよう言ってくれてたらしいです

捨て身で挑んだ「黒船密航留学大作戦」が失敗に終わった後、先生はあえての自首。そして連行されていく途中で詠んだのがこちらのの句でしたね。

かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬ 大和魂
吉田松陰
(こうすればこうなるってわかってたんだけどさ、どうしても実行する以外なかったんだよね)

兵法学の知識もあり素晴らしい戦略家だったと言われる先生が、なぜこんなとんでもない行動に出たのか。この時の先生を動かしたのは、損得ではない、どうにもこうにも抑えきれない衝動だったのではないでしょうか? 先生は後にこう書き残していらっしゃいますね。

「今ここで海を渡ることを禁じられているのは、たかだか江戸の250年の常識に過ぎない。今回の事件は、日本の今後3000年の歴史にかかわることだ。くだらない常識に縛られ、日本が沈むのを傍観することは我慢ならなかった。」

Book nibbler』より引用

たかだか江戸の250年の常識”は先生の言葉どおり、とっくに打ち破られ、ちょっとの勇気とそこそこのお金さえあれば、“世界”に向けて旅立つことができる時代が訪れました。そして、あなたが蒔いた種はこうして一人の人間を住所不定無職へといざない、今まさにまだ見ぬ“世界”へと送り出そうとしています。

そんな私の事情を知ってか知らずか、先生を祀っている松陰神社で厄払いしたら、「第二回福よこいこい 地域還元宝くじ」に当選しました。佐久間象山が密航留学を志す先生の背中を押したように、先生もまたバックパッカーとして旅に出る私の背中を押してくれているんだと勝手に解釈しています。先生の粋な計らいに大変感謝しております。そしてこれからも変わらぬご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。また何か当たるといいなと思っています

敬具


ちなみに、松陰神社に行った時の記事はこちら。

吉田松陰は教育者なので学問の神様だそうですが、私にとっては、旅と好奇心の神様。彼の残した「諸君、狂いたまへ」という言葉のように、枠に縛られず、我を忘れてものごとに熱中できる瞬間を大切にして生きていきたいものです

本日の記事は長かった。がんばって最後まで読んでくださってありがとうございました。

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