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2016-01-11

住みなすものはこゝろなりけり。辞世の句に思ふ事

松陰神社の傘みくじ

2016年がスタートして早くも11日が経ちました。

今年後厄を迎える私は、厄払いに。宗教的ないろいろなものからはできるだけ距離を置いておきたいと常々思ってはいるものの、2年前の前厄に”厄年”というものの恐ろしさを身をもって感じた私は昨年今年と、しっかりお払いに行っています。お払いのときの神聖な空気と、和太鼓と鈴の音、すごく好き。

今年の厄払いの場所は、山口県萩市。明治維新、新しい日本の夜明けの立役者・吉田松陰を祀った「松陰神社」です。

松陰神社

地元が山口県ってだけで、とくに縁があるわけではありませんし、とくに現在の日本を深刻に憂いているわけでもないのですが、実家への帰省がてら行ってまいりました。

2015年世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」の一部「松下村塾」(松陰神社の敷地内にある)

松下村塾

と「萩反射炉」

萩反射炉

萩反射炉

を訪ねつつ、しっかり厄も落とせたハズです。

こちらは、松陰神社のオリジナルおみくじ。その名も「傘みくじ」。

松陰神社の傘みくじ

300円払って、選んだ傘をパッと開くと、いろいろ今年の運勢的なことがかかれています。

なんと幸先がいい! 「大吉」あざっす! 傘みくじならではの「快晴」という言葉もまた晴れやかでいい! ま、その横「旅行:ケガに注意」に関しては、母親の「ちゃんとケガに注意しておけば大丈夫ってことやね~」という前向きな解釈を信じて、くれぐれもケガにだけは十分注意したいと思います。

そんな松下村塾を作った幕末の志士・吉田松陰先生。辞世の句が有名です。

「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」
吉田松陰

子が親を思う心よりも、親が子を思いやる心のほうが、はるかに深く大きい。自分の死を知って、親は何を思うだろうか。

あれですね、海外長期旅とかいっても、絶対に親を心配させたり悲しませるようなことは、やってはいけないということですね。危ない場所に行ったり、夜遅くに一人で出歩いたり、あやしい人に付いて行ったりしないように。これ私の旅の大前提。

それから松下村塾で学んだ塾生の一人に高杉晋作という人がいます。私はこの人の辞世の句、好きです。厳密にいうと最期の瞬間ではなかったそうですが、細かいことは置いといて。

「おもしろき こともなき世を(に) おもしろく すみなすものは 心なりけり」
高杉晋作

“おもしろき こともなき世を(に) おもしろく”は高杉晋作自身のもの。” すみなすものは 心なりけり”は、結核で病の床にある高杉晋作を看病していた女流歌人、野村望東尼が続けたものと言われています。

「おもしろき こともなき世を(に) おもしろく」
たいして面白いこともない世の中だったけど、自分的にはそんな世の中をけっこう楽しむことができたなぁ。

「すみなすものは 心なりけり」
そんな生き方ができるかどうかは、本人の腹の決め方次第ですよ。

上は、私の勝手な解釈です。どう読み解くかは人それぞれで、実際の気持ちは詠んだ本人にしか分からないので、「違うんじゃね? 」と思ってもスルーしてください。

「今なんかおもしろくないな~」と感じたとき、自分の力で変えられることは、自分が動いて変えてみる。自分の力ではどうすることもできない要因なら、それを受け入れてポジティブに捉えてみる。人生を楽しめるかどうかは自分がいかに行動したかであり、自分の心の持ちようでもある。”すみなすものは心なりけり”。いい言葉だなと思って、この記事のタイトルにしてみました。

人がどう思おうと、最期に自分自身が「楽しかったな~」と思える人生なら、それは最高なことです。

辞世の句ってやっぱり深い。”この世を辞する” 際に読む和歌や俳句、漢詩など。英語でいうと「death poem」。つまり、最期の瞬間や人生の終わりを意識したときに、心の内を詠ったものです。歴史上の人物が最後に残したさまざまな辞世の句がありますが、人生を集約したと言っても過言ではないその数十文字は、どうしても心に刺さります。

せっかくなので、私の印象に残っている辞世の句をご紹介します。何度も言いますが、解釈はひとそれぞれなので、間違っていても、スルーでお願いします。

「旅に病で 夢は枯野を かけ廻る」
松尾芭蕉

病の床にあっても、あんなところやこんなところを駆け回ることを夢見てしまう。

私の好きな俳人のひとり、松尾芭蕉の句。これは、正確には辞世の句ではなく、旅の途中の松尾芭蕉が、病床で詠み、それから数日後に亡くなったので、結果生涯最後の句になったというものです。松尾芭蕉本人としては、辞世の句として詠んではいないでしょうが、少なからず終わりを意識していたのではないかと思います。

病に倒れもう旅に出られないことを悲観した句という解釈もありますが、私の解釈は、ちょっと違う。「病で旅にでられなくても、私の心はいつも旅の中にある。っていうか何をしているときでも心はなんかもう旅の真っ只中にあって、脳内ではいろんな場所を駆け巡っている」っていう感じ。そのほうが、道祖神とそぞろ神の誘惑に勝てず「奥の細道」の旅に出ちゃった松尾芭蕉っぽいじゃないですか。

18文字に込められた「私の心はいつも旅の中にある」という想い。本当に、生涯を旅にささげた俳人・松尾芭蕉らしい句だ。

そしてもう一人、私の好きな俳人で種田山頭火という人がいます。複雑な生い立ちのせいで居所を転々としていたとはいえ、松尾芭蕉の旅好きとは違い、”漂泊”という言葉がしっくりくる種田山頭火。しかし、彼もまた旅を愛していたといいます。そんな種田山頭火が最後に詠んだのがこちら。

「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」
種田山頭火

季語も入っていなければ五・七・五でもないという、俳句のルールというものを完全に無視した何とも自由な作風が印象的。その瞬間の自分の思いを、自分のリズムでしたためた定形外の自由律俳句は、素直というか直球というか、とにかく心に響くものがあります。近づきつつある最期のときを感じてなお、勢いのある辞世の句がこちら。

ふと見上げた空に、もりもり盛り上がる雲(入道雲かな~)。それにむかってまっすぐ、勢いよく歩を進めていく光景が目に浮かびます。雲は、未来だとか自分の目標ややりたいこと、行きたい場所の象徴だととらえると、さらに勢いが増す! もりもりと大きくなる期待や憧れ。それに向かって歩き続けるぞ! と言っているみたいで、終わりが近いなんて思えない。まだまだ旅の途中、むしろこれからな感じが最高です。


ちなみに、松尾芭蕉の病というのは、一説では食中毒だったのではないかと言われています。世界をめぐる旅人さん、食べ物にはほんとに注意しましょう。保存状態と衛生状態はしっかりチェックして、怪しそうなものはなるべく避ける。私も含めですが、何でもかんでも食べてみようとしないこと。これ大事。

ということで、私の旅立ちが快晴に恵まれることを祈って、今年もがんばっていきましょう!

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